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  • 執筆者の写真Kunihiko Tanaka

劉暁波氏の遺志は死せず

更新日:2021年5月16日


中国人ノーベル平和賞受賞者、作家、人権活動家の劉暁波氏が、今月13日、多臓器不全のため中国当局の監視下で亡くなった。未だ61歳・・・。国家政権転覆扇動罪で懲役11年の刑に処され服役していたが、先月、刑務所から病院に移送された際には既に末期の肝臓ガンの状態。「『(中国当局によるこの移送の処置は)少しでも内外の批判を和らげるためだった』(日本政府高官)という見方が強い」(時事)との報道等が示唆し、米国に亡命中の中国人人権活動家や米下院議員が冷静かつ厳しく指摘しているように、独裁政権にとって”危険な邪魔者”である劉氏を中国指導部は「意図的に殺害した」が真相だろう。1989年の天安門広場における中国の民主化を求めるデモ(「天安門事件」)において、劉氏はコロンビア大学の客員研究員として滞在していた米国より駆けつけ、学生らが組織するハンガーストライキに加わり指揮を執った。デモの主要なリーダーの一人となったのだ。当時、行動を共にしていた関係者によれば、劉氏は銃や棒などの武器を用いようとする学生たちを戒め、「恨みを捨てよう。恨みは私たちの心をむしばむ。私たちに敵はいない。理性的に対話しよう」と訴え続けたという。事件後、同世代、後進の世代の多くが、代償が重すぎると判断し民主化を諦め体制に参加する中でも、彼は国内に留まり一貫して民主化を要求し続けた。本来、文芸評論家であり、文学や詩を愛し「政治は好きではなく、苦手」だった氏が民主化運動に関わり続けた思いの中には、天安門事件で犠牲になった多数の学生に対する責任感があった。「誰かがやらねばならない」。結果、当局により厳しい制約を受けることとなり、再三にわたり、投獄、拘留された。それでも、劉氏の金剛の如き固い決意は決して揺らがなかった。それはあたかも、ガンディーのごとく・・・真の非暴力主義の実践者の姿がそこにはあった。反体制者として生きることについて、劉氏はこう述べている。「”地獄“に行くと決めたら、暗いと文句を言わない。”反抗者“として歩み始めたら、『世界は不公平だ』と嘆かない」

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劉氏の悲しき死が海外でのある貴重な体験を再び思い出させた。87年夏、私は約二ヶ月をかけて中国及びチベットを一人旅した。初めて目にする広大な風景、神秘的な文化遺跡、多様な民族や珍味の数々にたちまち虜になった。しかし、最も心を動かされたのは、たまたま北京駅前で出会い親しくなった漢民族の鉄道員との会話だった。多くの年月が過ぎ去った今でも鮮明に覚えている。彼の部屋で筆談で身の上話をしながら談笑していた時、突然、彼の表情が曇り、思い詰めたように何かを書き連ねていく。小さな紙片は漢字で埋め尽くされた。彼はゆっくりと一字一字指差しながら「分かるか?」と訊いてくる。見憶えのある漢字を頭の中で繋げながら見えてきたのは、「中国共産党の腐敗、非道」だった。私はその旨を書いた。それを見て彼は頷き、「中国社会のこの酷い現状を日本で伝えてくれ」と単なる大学生に過ぎない私に強く訴えてきた。話を終えた後、その”告発状”を誰の目にも触れないよう彼は細かく刻んでゴミ箱に捨てたのだ・・・そして二年後、先の天安門広場における民主化デモが起こった。前述の旅の翌年、ネパールのチベット難民コミュニティを訪問し、チベット族の中国政府に対する深い憤りも理解していた私は、この民衆によるデモは起こるべくして起こった大きなうねりだと打ち震え、民主化が実現してほしいと切に願った。だが、その結末は当局による武力弾圧(虐殺)という悲劇に終わってしまった・・・

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劉暁波氏の死後も、中国当局は彼に関する情報を引き続き厳しく検閲し規制している。インターネットも例外ではない。こうして、 国内の殆どの中国人は彼の存在すら知らず、知っていたとしてもせいぜい欧米に影響受けた“罪人”というイメージだ。自分たちにとって不都合な存在はあらゆる不当な手段を使って徹底的に潰す — これは、古今東西変わらぬ独裁政権の本性だ。このまま民主化されなければ、エゴの肥大化した権力者やその追従者らにより巨大な軍事・警察力を有する超大国が恣意的に運営され続けていくことになる。この状況は、良識ある中国人、(中国内の)少数民族のみならず、人類の将来にとっても大いなる脅威だ。私は99年にインドにおいてダライ・ラマ14世に単独インタビューしたが、彼も中国の民主化を強く望んでいた。「私たちチベット人同様、中国人の多くは民主化を望んでいます。中国が民主化されれば、日本を含む近隣諸国も大きな恩恵を受けるでしょう。『チベット問題』の解決も中国の民主化の延長線上にあるのです」。劉氏も日本の新聞社とのインタビューの中でダライ・ラマと同様の見解を示し「中国の人権・民主化問題に声を上げることこそ日本の国益になる」と仰っていた。2010年、劉氏はノーベル平和賞を受賞。ノルウェー・ノーベル委員会は、長きに渡る中国における基本的人権を求める非暴力の闘いを称えた。当然のごとく中国当局は氏のノルウェーへの渡航を許さず、授賞式出席は叶わず獄中での受賞となった。「この受賞は天安門事件で犠牲になった人々の魂に贈られたものだ」と、劉氏は涙を流したそうだ。空席となった受賞者席が置かれた式典では、前年、自らの裁判審理で読み上げるために記した陳述書「私には敵はいない──私の最後の陳述」が代読された。文章には、劉氏の中国の民主化への熱い思いが込められている。

「私は望んでいる。私の国が表現の自由がある場所となることを。全ての国民の発言が同等に扱われるようになることを。そこでは異なる価値観、思想、信仰、政治的見解が互いに競い合い、平和的に共存できる。多数意見と少数意見が平等に保障され、特に権力者と異なる政治的見解も、十分に尊重され、保護される。そこではあらゆる政治的見解が太陽の光の下で民衆に選ばれ、全ての国民が何も恐れず、政治的意見を発表し、異なる見解によって迫害を受けたりしない」

長年の苦難にめげず、献身的に夫を支え続けた妻にかけた死に際の言葉は「あなたはしっかり生きなさい」「幸せに暮らして」だった・・・国連、ノーベル委員会、国際人権団体のみならず、各国の首脳からも劉氏の死を悼むメッセージが届いている。「人権と言論の自由を求め立ち上がった勇敢なる闘士の死を深く悼む」(アンゲル・メルケル独首相)

劉暁波氏の遺志は決して死に絶えはしない。その尊き精神は益々輝きを放っている。

 

(NOTE)

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