理論物理学者:インドの哲人クリシュナムルティとの対話における深き知性は心を揺さぶる。
人間の集団(人種・国家・家族・同業者などなど)間に広く行き渡っているある差別的態度があり、それが人類共通の幸福への共同を、いやその生存をすら妨げていることを提起する。そしてその差別的態度を生む重要な因子の一つとなっているのは、ものごと一般は本来分断・分割可能でさらに小さな構成部分に「解体できる」とする思考なのだと提案する。つまり、ここの部分が本質的に自存的かつ独立的と考えられるのである。人が自分自身をこのような仕方で考えるとき、ひとは他者の「自我」に対抗して自らの自我の要求をひたすら守るようにならざるを得ない。そうでなくても彼が同じ種類の人々に自らを同一化するなら、同じような仕方で彼はこの集団の要求を守ることになるだろう。彼は根本的な実在としての人類、その要求こそ最も優先すべき人類というものに気づくことすらできないのだ。まかり間違って人類というものを考えようとしても、往々にして彼は人間性を自然から切り離して考えてしまうのである。私が言いたいのは総体についての考え方、つまり全体的な世界観が他ならぬ人間の心の秩序全体に決定的な重要性を持つことである。人がもしその総体を独立した断片から成ると考えるなら、彼の心はまさにそのような仕方で働いているのである。だが彼があらゆるものごとを、分割も分離も境界付けも許さぬ(実際、あらゆる境界は一種の分離・分断である)全体のうちに矛盾なく調和的に包摂することができるなら、かれらはそれと同様な仕方で運動するようになり、その全体内部で秩序的行動が生れて来るであろう。(『全体性と内蔵秩序』)
東洋においても、西洋においてと同様に、教訓の中に暗示された洞察を自分で創造的に把握しようとはせず、ただ既存の教訓に盲目的に従い教訓を機械的に学習するようになった。そのために本来正しい洞察が、間違ったもの、誤解を招くようなものに変容してしまったのである・・・新たに学び直し、観察し直し、自分自身で全体性ということの意味を発見することが必要とされている。もちろん、西洋と東洋の過去の教訓を共に知っていかなければならない。しかし、これらの教訓を模範や手本として盲従するだけでは、ほとんど意味がない。本章ですでに指摘したように、断片化と全体性に対する洞察を新しく発展させるためには、科学上の基礎的な新発見や、偉大な独創的芸術作品の創造よりも、さらに困難な創造的活動を必要とする。こうした文脈において、アインシュタインと同じような創造性を持っている人というのは、アインシュタインの考えを模範とする人でもなければ、アインシュタインの考えを新しいやり方で応用する人でもない。創造性のある人とは、アインシュタインから学び、アインシュタインの研究の確かな部分を消化しながらも、独創性を持った質的に新しいやり方でアインシュタインの研究を乗り越えていくような人を言うのである。東洋においても西洋においても、過去の偉大な知恵を受け継ぎ、現在の生活状態に適した独創的な認識を新しく生み出さなければならない。(『全体性と内蔵秩序』)
インド屈指の聖典。アインシュタインが愛読し、ガンディーはこの聖典を人生、アクションの指針とした。
”真のヨーギーは万物の中に自己(アートマン)を見 また自己の中に万物を見る
まことに真理を覚った人は あらゆるところを同等に見る”
”すべては我が身の上のこととして 他者の悲喜を わが悲喜とし
あらゆる生物を自己と等しく見る人こそ アルジュナよ 完全なヨーギーである”
"他人の義務を引き受けるより 不完全でも自分の義務を行う方が良い
他人の道を行く危険をおかすより 自分の道を行って死ぬ方が良い"
"森羅万象いかなる処にもわたしを見 わたしのなかに森羅万象を見る人を
わたしは必ず見ている 彼は常にわたしと共にある"
"すべては我が身の上のこととして 他者の悲喜を わが悲喜とし
あらゆる生物を自己と等しく見る人こそ アルジュナよ 完全なヨーギーである"
"アルジュナよ 利得の業を離れ 空理空論を捨て わたしを愛慕し わたしのために働き
わたしを至上目的とし 一切生類に思いやりを持つ者は 必ず疑いなくわたしのもとに来るのだ"
(『神の詩―バガヴァッド・ギーター』)
「真理」を基盤とする”非暴力・不服従”によりインドを独立へと導いた英雄にして、非暴力闘争の師。
非暴力の思想に心の底からなりきるには、 かなり徹底した自己訓練を必要とする。それには軍隊生活のように厳しく自分を訓練し、統御しなければならない。そして、心と行動と言葉とが完全に一致しなければ、完全な非暴力を達成することはできない。われわれが真理と非暴力を世の中の掟にしようと決意したとき、あらゆる問題は真の解決の兆しを見せるであろう。
ギーターによって常に私は平安を得た。私が全くの孤独に陥った時、周囲から絶望に囲まれた時、そして一縷の希望もそこに見出せなかった時、私はギーターに救いを求め、そして私は人生の恐ろしい試練の中でも微笑みが訪れるような、何らかの詩句をあちこちに見出した。私の人生は外的な苦難に満ちている。しかしそれらは私自身に些かの痕跡も残していないのは、このギーターの教えのお陰である。
自分が行動したことすべては取るに足らないことかもしれない。しかし、行動したというそのことが重要なのである。
速度を上げるばかりが人生ではない。
われわれは数量的な力に頼らない。われわれは人格の力に頼るのである。
偉大な人は常に一人立つ。
世界に変革を求めるならば、先ず己自身を変えよ。
何か信じるものがあるのに、それに従って生きない人間は信用できない。
土を耕すのを忘れるということは、自分自身を忘れることだ。
私は、苦い経験を通じて、最高の教訓をひとつ学んだ。怒りをコントロールするということだ。蓄えられた熱がエネルギーに変わるように、抑制された怒りを、世界を動かす力に変えることができる。
目的を見つけよ。手段は後からついてくる。
たとえ一人になろうとも、全世界に立ち向かい給え!世界から血走った眼で睨まれようとも、
君は真っ向から世界を見すえるのだ。恐れてはならない。君の心に響く、小さな声を信じ給え!
私の生き様が、私のメッセージである。
私は、一人が精神的に利益を受けるのであれば、その人を取り巻く人たちが被害を受けるとは思わない。アドヴァーイタを信じる私は、人間の本質的な単一性を信じているし、単一性ということでは、生きとし生けるものについても信じている。したがって、一人が精神的に利益を受けるのであれば、やはり世間全体が利益を受け、一人が堕落すれば、世間全体も同じ程度堕落するものと思っている。
パキスタンの教育活動家。史上最年少のノーベル賞(平和賞)受賞者。
あなたがどこへ行こうとも、たとえ天国でも、故郷を恋しく思うでしょう。
私は銃撃された少女として記憶されることを良しとせず、立ち上がった少女として記憶されたい。
難問や戦争に対処する最善の方法は対話です。
あなた自身が誰なのかを知ることはとても大切です。決意し、真のあなたを示すのです。
全世界が沈黙を決め込む時、 たった一人の声でさえ輝く希望の光となる。
母国語、肌の色、宗教で差別されてはならない。
たった今、私たちの未来を創造しましょう。夢を明日の現実としましょう。
偉大なる”沈黙の聖者”ラマナ・マハルシの愛弟子。インドのみならず世界中の多くの者たちを覚醒へと導いた。
羊は別の羊の後ろをついて行く。そして特定の方向に導く誰かを必要としているのだ。だが、あなたはライオン番に見張られているライオンの群れを見たことはないだろう。ライオンは自分の道を切り開いていく。ライオンは誰の後にも従わない。誰もライオンにどこへ行くべきか、行くべきでないかと告げる者はいない。自由を見出したかったら、羊になってはならない。他の誰もがしていること、信じていることに従ってはならないのだ。
あなたが行くべきところなどないのだ。教会や巡礼に行くことも、聖なる河で沐浴することもない。それらは助けにはならない。あなたはヒマラヤへ行くかも知れない。どこかの寺院へ行くかも知れない。だが、そのようなことは助けにはならない。それは間違いない。あなたは自分自身の真我に直面しなければならないのだ。
最高の神、最高の教会、最高の寺院は全てあなたの内側にあるのだ。
世界的に著名なインド人環境活動家。自然の多様性の重要性を世界各地で舌鋒鋭く訴えている。
あなたは肩に世界を運んでいる巨人などではない。地球があなたを運んでくれているのだ。
資本が膨らめば、自然は萎む。市場の成長によってその危機を救うことはできない。
ガンジーは別格だ。彼は唯一真の民主主義を理解してい人だ。つまり、好きな所に行ったり、欲しいもの買う権利としての民主主義ではなく、あなたの周りにいる人々に対する責任としてのそれのことだ。民主主義は飢餓からの、失業からの、恐怖からの、そして憎悪からの自由から始まるのだ。私にとって、それらは真の自由であり、優れた人間社会に基づいている。
グローバル化による産業化された食物は決して安くはない。地球にとって、農家にとって、私たちの健康にとっては非常に高くつくものだ。地球は地下水採取、農薬汚染、種の消滅、気候変動により疲弊している。農家は農業の産業化に伴う高コストによる負債に喘いでいる。もはや、安全で文化に適し、滋味に富んだ食物を栽培することはできない。また、皆に行き渡る十分な食物を栽培することもできない。土地、水、エネルギーが浪費されているからだ。産業化農業は伝統農業に比して10倍以上のエネルギーを使い、その効果たるや10倍以下なのだ。
こうして万物は一つのものに集約される。外をさまよっていてはならぬ。万物の根源とともに、自らの内にとどまっていよう。この神聖な事実を単刀直入に告げ、押し入ってこようとする人々や書物や制度を驚かせ、アッと言わせるのだ。侵入者には靴を脱ぐよう命じよ。あなたの内には神がいるのだから。素直な心で彼らを判断するのだ。自分自身の法に従って生きるなら、人間には本来、自然や運命が及びもつかない豊かさが宿っていることを証明できるだろう。しかし、いまの私たちは愚民にすぎない。人間という存在に畏敬の念を抱くこともなく、自分の才能を信じて、内なる海と親しむよう諭されることもなく、他人の水瓶から一杯の水を恵んでもらおうと外に出かけていく。
人間はひとりで歩まねばならない。私はどんな説教よりも、礼拝が始まる前の静かな教会が好きだ。自分だけの聖域や神殿に身を置き、ひとり黙している人々の顔は、なんと神々しく、清らかで、慎み深いことだろう!だから常に座していよう。友人や妻や父や子供と同じ暖炉を囲んでいるからといって、あるいは彼らと同じ血が流れているからといって、なぜ彼らの欠点まで身につけねばならないのか。人類には私の血が流れ、私には人類の血が流れている。だからといって、彼らの短気や愚かさを取り入れるつもりはない。むしろ、恥ずかしいと思うぐらいだ。ただし、こうした孤独は機械的ではなく、霊的なもの、自分を高めてくれるものでなけれならない。
ときには全世界が共謀して、自分を些末なことで悩ませるように思うかもしれない。友人、依頼人、子供、病人、恐れ、欠乏、慈善が、あなたの部屋のドアをいっせいにノックして、こういうのだーーー「どうか、こちらへ来てください」。しかし、動いてはならない。彼らの混乱の中に入ってはならない。愚かな好奇心が、自分を悩ませる力を相手に与えるのだ。私自身が行動を起こさない限り、誰も私に近づくことはできない。「われわれは自分が愛するものを手にしているが、欲望によって、その愛を自ら失う」のである。
自己信頼を高めていけば、あらゆる仕事と人間関係、宗教、教育、研究、生活様式、交際、観念に革命が起きることは想像に難くない。
静寂な時間を過ごしているとき、なぜかはわからないが、魂の中の「存在」を感じることがある。「存在」は、物事や、空間や、光や、時間や、人間とは異なるものではなく、それらを内包したもので、明らかにそれらの生命や存在と同じ根源を共有している。私たちは物事を存在させる生命を最初は共有するものの、後になるとそれらの物事を自然のなかの現象としてとらえてしまい、その根源を共有していたことを忘れてしまう。しかし、ここにこそ行動と想念の泉がある。ここには人間に叡智をもたらす霊感を呼吸している肺がある。… 私たちは限りなく広大な知性の中にいる。
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